2015年10月11日日曜日

薄闇、そこは散漫もしくは出口

「薄闇、そこは散漫もしくは出口」ワークインプログレス
作品ノート

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話の起承転結を気にせず、
感覚的なことをシーンとしていかに立ち上げるか。
それが重要だったんだと思う。

「まるで見開いているかのように目を閉じて、
研ぎ澄ますかのように神経を鈍らせる。」

ときどき酔っ払って道路で寝ることがある。
寝ゲロにまみれていたこともある。
絶望はもうしない。特に恥じたりもしない。
人生はギャグだ、をモットーにしていたのは赤塚不二夫だったっけ。

「この痛みを存在意義に変換することはしない。
それよりも軽やかに、跳躍することを目指す。」

豊かな闇はただの黒色でない。
抑うつ気分はむしろ、目が眩むような極彩色が底辺に渦巻いている。
五感が腐るくらいなら、ラリっていたい。

「誰かを殺して生き急がなければ、この体は、中途半端な死体は、埋没してしまう。」

業の深さを認めるのはあまり簡単じゃない。
大して知らない誰かのことをいつも気にしている。

「うるさい、黙って。大丈夫。今度こそ、誰の声にも振り返らず、
男の精液にも塗れず、私は、」

私は、たぶん起爆剤が欲しい。

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暗闇では自然と目を瞑る

2015年7月25日のできごと。
ひとりで長野の善光寺へ日帰りの旅。


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稽古後に下北沢の居酒屋にて日本酒を飲み、
泥酔に近い状態で新宿駅バス乗り場へ。
24時30分発の夜行バスで長野に向かう。
朝4時頃、東部湯の丸SAで休憩。外はまだ暗い。
明け方のサービスエリアは人気がなくて殺伐としている。
こういうときは高速道路に並んだナトリウム灯に妙な暖かみを感じる。

5時頃、長野駅着。
開いている店がなくしばし途方に暮れる。
善光寺までのんびり歩くことにする。
北野文芸座の前でコーヒーを飲みながら一休みしていると、ツバメの巣を発見。
巣の中で家族がざわついている。
散歩中のおじさんがそれを眺めて「こりゃまた」と呟いた。
ベンチにしばらく座っていると鳩に懐かれてしまい戸惑う。
観光地にいる鳩は体型がふくよかで態度が横柄だ。




善光寺に到着。お戒壇巡り。
戒壇巡りとは、本堂の地下にある真っ暗闇の回廊を歩き、
御本尊がしまわれた扉の錠前を探り当てることができると
娯楽浄土が約束されるというもの。

暗闇の中を手探りで歩くと、視覚以外の感覚機能が鋭くなる。
自然と目を瞑って歩いたのは、他の感覚に集中するためだったのかもしれない。
空調の音や埃っぽい匂いが印象的だった。
その感じは色に例えると薄紫色だと思った。

史料館の開館時刻前だったが気さくな職員が案内してくれた。
職員がスリッパを差し出しながら「どっから来たの」と言い、
私は思わず「横浜です」と答えた。
出身地を訊ねたわけじゃないから「東京です」と答えるのが正しかったと思いながら
奉納絵馬をぼんやり眺めた。




水子観音像に、お婆さんが熱心に水をかけ手を合わせていたのが印象的だった。
あまりにも上手に水を引っ掛けるので惚れ惚れした。
彼女はもしかしたら毎日拝みに来ているのかもしれない。
産まれなかった子供について、死ぬまで考え続けるのかもしれない。
水しぶきがきらきらして気持ちが良かった。

「すや亀」というお味噌屋さんで、
みそ味のソフトクリームを食していたらまたもや鳩が寄ってきて困惑。
仕方なくコーンの部分をちぎって与えると次々と鳩が群がり、慌てて退散したのだった。

15時発・飯山線越後川口行の電車を待つため、
長野駅構内でアルプス白ワインを立ち呑みする。
軽井沢のハーブソーセージと、善光寺浪漫という缶ビールを購入して乗車。




森宮野原駅にて下車。
グーグルマップが反応せず迷子になりかけるも地元の人に助けてもらい、
無事、上郷クローブ座に到着。
廃校になった中学校を改築した劇場で、建物自体が味わい深く郷愁に駆られた。
越後妻有トリエンナーレ参加作品、サンプル『ヘンゼルとグレーテル』観劇。




観劇後、再び長野駅へ。
バスの発車まで、お蕎麦屋さん「油や」で
戸隠おろし蕎麦と姥捨正宗という日本酒を。
この旅は最初から最後まで、ほぼ酔っ払っていたのだった。

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